2017年7月14日(金)
こどものころ両親よりも祖父母と過ごすことが多かった人は、漏れなく“おじいちゃんこ、おばあちゃんこ”だと思います。
うちのおばあちゃんは、九十二歳。脚が不自由になり十年以上前から要介護認定を受けて最近は横になっている時間が多くなりましたが、その年齢を考えたら立派なほど元気です。ちゃんとご飯を食べます、肉やパスタが好きえです。もう出来ない農作業についても、何を植えるか、雑草は生えていないか、いつも思いを巡らせています。本当は畑に行きたくて仕方ないのに、それが出来ない身体になってしまった無念さは見ていて可哀想になりますが。
独り暮らしを始めてから会えるのは年数回、その会えない間にゆっくり身体は弱りだして何度も救急車に運ばれて入退院を繰り返しました。一時はもう家には戻れないと医師から告げられ、部屋の荷物の一切を片付けられてしまったおばあちゃん。でも奇跡とも呼べる復活を果たしみごと家へと帰還したのはもう九年も前になります。
家族ってサザエさん一家とは違い、その団欒には有効期限があったことをおじいちゃんをなくした時に痛感させられました。それまでピッタリだった魚の切り身がひと切れ余ってしまう違和感は長い間拭えず、家族が歳を重ねることに不安と焦りを感じ、気がつくと“今”を逆算でしか捉えられない悪癖が身についていました。おかげで時間は常に足りていないと錯覚し、未来は不安に覆われます。
そんな見えるはずもない“タイムリミット”を気にしているから会う度に老いて行くおばあちゃんを見るのは切なくて永らく現実を直視できない状態が続きました。
ただ、生活のほとんどを一人でこなせなくなってからも食べ終えた自分の食器は自分で洗い、自分の洗濯物は歩行器にしがみつきながら自分の手で干す、その姿勢は一貫して変わりません。他人に迷惑をかけるのが苦手なのも昔からの性分で、週三回お世話になっているデイサービスのヘルパーさんの手を煩わせないようにと指定された時間の十分前には準備を済ませ玄関先で待っています。
「じぶんで出来ることはじぶんでやる」
呆れるほど聞いた口癖を口にして、命に別状はない範囲で何でもやろうとします。九十歳を過ぎた今、その言葉と意思の強さは半端なものでなく、こちらの脆くて華奢なセンチメンタルを打ち負かすには充分で悲観的にしか見れなかったありのままの姿を受け容れられるようになりました。
あのサザエさん一家だっていつかは迎える最終回。悲観することなくその時を迎えられているでしょうか。その日曜の夜に何を思うのか楽しみにしています。