2017年8月26日(土)

 

空前の「のら猫観察ブーム」が終わり四年が経ちましたが、それまでの三年間で撮りためた写真は4,000枚ほど、パソコンのハードディスクをひたすら圧迫しています。

 

 

人を見てもあからさまに逃げないのら猫には生活を支えてくれる人間の存在があって、来る日も来る日も猫を眺めていると、そんな人たちと自然と顔見知りになります。はじめこそ軽い緊張感が走ったものの、のら猫を遠目から観察しているだけの男とのら猫に愛されている人たちとの距離も徐々に縮まって、やがて猫友になるわけですが、「お兄ちゃん、ねこ好きなの?」はじめて話しかけてくれた人が“さとうさん”でした。

 

 

もうおばあちゃんと呼んでも差し支えないさとうさんの猫への愛情は凄まじく、小手先の可愛いや可哀想が放つエゴさではない慈悲深さを感じました、それは昔話に出てくる仏様みたいな。さとうさんは、雨の日も風の日も、雪の積もる日も年代物の自転車を飛ばして猫たちが待つこじんまりとした公園にやってきます。冬なら16時頃、夏なら17時半過ぎ、公園の人影がまばらになる時間を選んで。

 

 

自転車を停めるや否や、夕飯の支度です。お世話道具とご飯をたっぷり詰め込んだカゴからまずは新聞紙を取り出し、ランチョンマットのように敷き詰めると大小それぞれのお皿をいくつも並べて、カリカリや缶詰、猫用ミルク、時にはお手製のスープまで数種類のご飯を盛り付けます。のら猫の食事とは思えない豪華なメニュー!

 

 

その夕飯にありつけるメンバーは八匹。母と三兄弟からなる家族、抜群の社交性を誇る白黒の子供、喧嘩が絶えない母と娘、孤立を好む怪我だらけの黒猫。八者八様のディナータイムが始まります。人なつこい猫は色んなお皿を食べ歩き意のままにおかわりを貰えているのに対し人付き合いが下手くそな猫は隅っこでウジウジしてる。残念ながらぐいぐい系が得をするのは人間社会と同じです。でも大丈夫、ここにはさとうさんがいます。だから最後にはどんなひねくれた猫だってお腹一杯になれるのです。

 

 

見ているこちらが妬ましく思えるくらいの贅沢無双ぶりですが、猫たちの楽園はそれだけに留まらず、食後のデザート→マタタビ→ブラッシングと幸せフルコースは一時間以上続きます。そして日がすっかり落ち込み夜の入口に差し掛かったところで、さとうさんの“お仕事”はようやく終わり。持参していた大好物のコーラを一気に飲み干すと、「また明日ね」、遠い目をしてごろごろ寝転がる猫たちに別れを告げて、また自転車をギシギシ言わせ帰っていきます。公園にひとつのごみも残すことなく。

 

 

そんな光景がすっかり日常になったある日、それまで言い出せなかったことを口にしてみました。

 

 

「家で猫を飼えばいいんじゃないですか?」

 

 

「飼わないけど、勝手に猫が家に入ってくる」

 

 

「のら猫ですか?」

 

 

「知ってる猫だけど」

 

 

「すごいですね」

 

 

ご本人曰く、飼い猫ではない猫がアパートの窓から侵入し、こたつの上に座っているとか。この人は一体なん匹のお母さんをしているのだろう?想像以上のおおらかさに、プライベートを深掘りするのはやめました。そう言えば、知り合ってから今まで互いに自己紹介をしたこともないですし、“さとうさん”って名前も元々は他の猫仲間がそう呼んでいるのを真似ているだけでした。

 

 

のら猫の面倒を見る人を“いい人”と呼べるのは、のら猫とのら猫好きの人間くらいなもの。その存在を良く思わない人もたくさんいます。実際にのら猫観察ブームの期間中は白い目をした人たちからの冷たい視線をたくさん感じました。自治体が掲げる『猫にエサを与えないでください』の看板の前では、迷惑行為として認識されてしまうのも無理はありません。それがどんなに愛くるしい容姿をしたのら猫だって35年ローンを組んで購入した家の周りをうろついて小便でもかけられたら腹が立つのも当然です。

 

 

とは言え、公園に一切のごみを残さず、見知らぬのら猫がいたら捕獲して去勢手術まで自費で行うさとうさんの後姿を見ていると、それが一概に迷惑行為と糾弾できるのか疑問に感じてしまいます。正しいことと正しいことが二つ並ぶと難しい。世の中が悪者を必要とする気持ちが良くわかります。

 

 

どれほど悩んでもどちらの正しさも持ち合わせていない傍観者が消化できる問題でもなく、多少の後ろめたさを引きずりながら猫の観察を続けていましたが、四年前、家を引越したことを契機に次第に公園から足が遠のいていきました。それは同時にさとうさんに会わなくなることでした。

 

 

4,000枚も撮りためた写真の中にさとうさんは一枚も写っていません。その猫たちのすぐ側にいたはずなのに。いつの頃からか猫よりもさとうさんの元気な姿を見る為に公園に通っていたはずなのに。