2017年10月7日(土)

 

誕生日プレゼントに貰った『君の膵臓をたべたい』を読みました。「キミスイ」って略し方「キモスイ」みたいで違和感を抱いている人は確実にいるでしょう、でも成り立ちは同じようなものだからいいのか。でも、肝の吸い物と君の膵臓とではやっぱり違う。

 

 

お話の冒頭でヒロインの死後を描いてから物語が始まる刑事コロンボ方式。他人への興味がなく家族以外の人間関係を断絶してきた主人公の「僕」と膵臓の病で余命一年にも関わらず明るく社交的なヒロインの「君」、そんな二人の高校生の言葉と思いのやり取りだけで進む物語。余分な登場人物もシーンもないので密室劇みたいな濃密な雰囲気が味わえます。序盤はそのやりとりが少しもどかしく感じますが、それが良いフリになって最後はグッときてしまう仕組みです。

 

二人共それぞれの立ち場でちゃんと自分のことを理解していて、こんな高校生いるの?と思いながら読み進めていました。いないでしょ?いや、今時の高校生ならいるのか、あんなに揺るがない凛とした考え方を持つ十代。『アウトレイジ ビヨンド』公開時に三浦友和さんがインタビューで「今はほぼ大人がいない、僕も含めて、強く、頼れる、死ぬことも恐れない大人が」と仰っていたけど、やはり死を自覚している人が最強なのか。

 

 

去年のNHK大河ドラマ『真田丸』でも主人公の真田信繁は死んでしまうって知りながら1年間見続けていたのに最後の切腹のシーンはやっぱりとても悲しくて、この大河ドラマだけでも“鹿児島に逃げ延びた”説を採用して欲しかったな〜、と心底思えたのと同じで、この『君の膵臓をたべたい』のヒロインが死んでしまうのもただ悲しかったです。お話としてのオチやカタルシスを無視してでも生きていて欲しいなって。だってまだ十代、未来ある貴重な人材を失ったら悲しいじゃないですか。最近は子供の死に特段弱いのです。

 

死を思うことで“生”をより意識するメメント・モリ的な命題をまたも突きつけられて、今回も「悲しい」のひと言で終わらせてしまう。先に逝ってしまった人は今に戻ってきてくれませんし、何年も待っているのに。

 

 

「僕」と「君」が互いの言葉を飲み込んで、同じ空気を分け合って、息苦しいほどの喜びや悲しみを味わうまでの四ヶ月間のお話の中で、二人は最後まで友達でも恋人でもない関係を保ち続けたのが印象的でした。踏み込むこともせず、かといって離れるわけでもなく絶妙な距離を保ったまま。いい距離感は美しさを生みます。ホテルで打ち合わせをしながらも「一線は越えてない」と主張した政治家のおばちゃんに教えてあげるべき教訓。

 

そんな特殊な関係性を築ける人との出会いって奇跡や運命にその理由を押し付けがちですが「君」はそれを“選択”と言い切ったシーンがかっこよかった。これを十代で言えるからかっこいい。

 

 

「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」

 

 

哲学の概念で言う「自由意志vs決定論」。で、「君」は自由意志の支持者。何もかも運命のせいにするのは無責任な気がしますし、せっかく苦労して人間やっているのに面白みがない。ベートーベンの交響曲第5番「運命」だってベートーベンが名付けたものではない誰かの後付けによるものです。

 

 

そんな圧倒的ポジティブな「君」の存在により少しずつ変わる「僕」。恋人でも友達でもない。好きでも愛しているでもない。いちども名前すら呼んだことがないただのクラスメイトだった「君」へ辿り着いた「僕」の思いが潔くて良い。

 

 

「僕は、本当は君になりたかった」

 

 

ちょっと川本真琴の「1/2」を思い出しましたが、あっちはあたしたちってどうして生まれたの 半分だよね 一人で考えてもみるけど やっぱへたっぴなのさ”と補い合いたい愛なので違います。「僕」は「君」になることを“選択”したいのだから、それはもう補うでも欲しいでもない全細胞を入れ替えたいレベルなんだから。そうまで思わせる「君」の魅力は天井知らずのままいよいよ物語はクライマックスへ。

 

「僕」の思いに対する「君」の答えは彼女の死後に目にすることになる“遺書”ですべて明らかになります。泣くなら今しかねえとばかりに。

 

 

だけどね、私は君と恋人になる気はなかったし、これからだって、なる気はない。と、思うよ、多分ね(笑)〜略〜それにね、私達の関係をそんなありふれた名前で呼ぶのは嫌なの。恋とか、友情とか。そういうのではないよね、私達は。

 

 

友達以上恋人以上に適した日本語はないし。愛人って言葉はいつからマイナス側にいったんだろう。でも、そんな肩書きを必要としない人だからこそ、いい距離感を保てるのかもしれません。肩書きがないから誰にも紹介できない人っていますよね。ケータイのメモリをどのカテゴリにも登録できない人。

 

 

そして、最後に辿りついた彼女の結論。読者もずっと待っていました。でもこれを死後に知らされる「僕」の気持ちを思うと痛恨の極みです。

 

 

17年、私は君に必要とされるのを待っていたのかもしれない。桜が、春を待っているみたいに。

 

 

待ちきれないで咲いてしまう花も多い中、とても真っ直ぐで素敵な表現です。17年で辿りついたのはかなり早いと思われますが。『君の膵臓をたべたい』とてもいいお話でした。久しぶりに青春系恋愛小説を読んで心が洗われた思いです。人の書いたものはたいてい面白い、人が作った料理がたいてい美味しいように。心の汚れに気づいたらまた読みます。

 

 

そう言えば、映画『君の膵臓をたべたい』の主題歌ミスチルの「himawari」を聞きながら読むと涙量120%UPします。つくづく季節感のある名前の人が好きです。なかでも夏が。もう今は肩書きもない人。