2018年5月30日(水)
誕生日おめでとう。
ありがとう。
今日、時間ある?
私、四限まで授業だからその後なら大丈夫だよ。
じゃ五時に駅前にできたカフェでいい?
わかった、授業終わったら連絡するね。
この春、うちの大学の学生を見込んでオープンしたカフェ。カフェと呼んでいいのかどうか少しはばかられるのは見た目と名前のせいか。燻された木版に行書体で記された『喫茶アップル』。あとから知ることになるのだけどマスターがビートルズの大ファンでそれでアップルと名付けたらしい。そう言えば店には絶えずビートルズが流れていたし、有名な横断歩道の写真が飾られていたような気もする。ビートルズばかり流す店は当時は珍しくなかったのだけど。
二ヶ月あった春休みのほとんどをアルバイトに注ぎ込んだおかげで普段は絶対にするはずのないパチンコをしながらそのメッセージを送信していた。
うん、居眠りしないように!
ここ『パチンコキング』から10分ほど歩いた場所に小さなお弁当屋さんがある。店主のおじさんとその奥さんが切り盛りするお店はお世辞にも繁盛しているとは言えなかったけど、それこそがそのお弁当屋さんをバイト先に選んだ理由でもあった。
橙色のレトロなカウンターから顔を出してひたすらお客さんを待つ。それが勤務時間の大半を占める僕の仕事だ。唯一の賑わいを見せるお昼時でさえ顔馴染みの常連さんがお決まりの弁当を買いに来るだけ、“暇”は思いのほか苦痛だった。一度だけ予約注文されていた10個ほどのお弁当を他のお客さんに出してしまうミスをして調理担当のおばさんを困らせてしまったことがあったけれど、おじさんもおばさんも僕を責めることはなかった。僕は息子のように可愛がられていた。今だからそう思えるのかもしれない。でも「うちに婿にこないか」なんて言われていたから、やっぱりそういうことだったのかと思う。あれほど暇を持て余してたんだからもう少しおじさんとおばさんと三人で話をすれば良かったな。おじさんは中日ドラゴンズのファンだったから今年はきっと喜んでいるに違いない。
休みなく働いたおかげで大学が始まる4月にはそれまで見たこともない預金残高となっていた、─220,000円。すべては今日、つまりは彼女の誕生日のために稼いだお金だ。もちろん全額をプレゼントに費やせるほど独り暮らしの学生の財布事情は明るくないのだけど、大学四年生なりの最大の気持ちを見せるつもりだ。この日の為に銀座のルイヴィトンまで慣れない足を運んで家賃より高い真っ赤な財布を買ってきたのだから。
彼女とは大学二年生の時に知り合い、どういうわけか三年生の夏の終わりに付き合うことになった。付き合うことになったのは僕が好きになってしまったからに他ならない。どうして好きになったのかは今となってはわからない、本当に好きなものには理由がないと誰かも言ってたし。
4時半を過ぎた。そろそろ四限が終わる時間だ。タイミング良く軍資金の一万円も尽きたところでパチンコ店を出た。缶コーヒー1本にしては高い出費だったけど、そんなことでくよくよしていられないほどに気分は高ぶっていた。授業を終えた学生達が連なって駅へと向かう。四限は何の授業なのだろう?隣に僕が居ない彼女を想像しながら歩く。顔見知りの者もいたがあえて声をかけるほどでもない。そんな関係が大学には山ほどある。顔見知りもそうでない者も皆、駅に吸い込まれて行く。あとで調べたら四限は「考古学II」だった。
着いたよ。
5時には少し早い、急かせては悪いと思いながら送信ボタンを押した。返信はすぐに来た。
ごめんね、少し遅れる。
大学から駅までは20分ほどの距離だ、5時の待ち合わせは早すぎたのかもしれない。人通りが多い改札前をやめて駅前から伸びる小さな商店街の入口で待つことにした。流行りの歌なら一通り揃うCDショップからSING LIKE TALKINGの『Spirit Of Love』が聞こえてくる。その向かいにこの春オープンしたのが『喫茶アップル』だ。この辺りは待ち合わせスポットなのか足の踏み場もないほどタバコの吸い殻が散乱している。もちろん僕のではない。駅の壁掛け時計が5時15分を指した、彼女が通学用に使うラクダ色のショルダーバッグがなかなか見えてこない。
正直に話せばこの日はプレゼントを渡す以外に特別なことは何ひとつ計画していなかった。と言うよりプレゼントを渡すことだけで頭がいっぱいだったってのが正しい。なにせデートと言えば大学の学食かワンルームの部屋しか選択肢がなかった僕らに高級なレストランで食事をする発想とお金はまだなくて、それが実現したのはそれから三年後の5月30日だったと思う。
大学の四年間を彼女はキャンパスからひと駅のところにある実家から通学した。アルバイトで新幹線の売り子をしているせいか同級生たちより少し裕福で落ち着いて見える。背は高くないし痩せている方でもないけれど歩く姿と笑顔は美しかった。何より僕よりいい人だった。そんな彼女がこれほど遅刻するのは珍しい。5時半を過ぎたところで仕方なく『喫茶アップル』に入ることにした。
「お好きな席」を促されたので駅前が見渡せる窓際の椅子に腰掛けた。内装はカフェというよりレストランのそれに近い、クリーム色の壁づたいにディスプレイされているイラストとも写真とも言えないアート作品が目を惹く。外看板同様にダークブラウンで統一されたインテリアはオープンしたばかりとは思えない風格で、艶やかに光る赤いタータンチェック柄のテーブルクロスだけが新しさを物語っていた。チェーン店っぽさを感じられない雰囲気に少し緊張してしまう。もうすぐ彼女が来る旨を告げ、お冷だけもらうことにした。
さほど広くない店内にそぐわない音量で洋楽が流れているものだから、聞き逃さないようにと携帯電話をテーブルに置いた。15分が過ぎた、水を飲み干した身体に冷房は少し肌寒い。風の出所に目をやると、低い唸り声をあげる巨大な縦置きの空調が、これまた縦長の木製ラックと“つがい”のように並んでいた。木製ラックは本棚としての役割を与えられているようで雑誌や漫画本、ハードカバーの小説などが整然と並べられている。カフェに小説なんて珍しいな。他にすることもないので本棚を闇雲に物色し始めると村上春樹や林真理子などの有名タイトルに混じって並んでいるひときわ長い名前の本に目を奪われた。『駅前の潰れたカフェに5時でいい?電池の切れたポケベルが鳴る』、海外の作品みたいな装丁だ。とりあえず席に持ち帰り開いてみる。原題は『All will be in the past』、邦題としてこの長ったらしいタイトルがあてがわれたらしい。
─誰もいない部屋で約束だけが息をする。(アリエット・キャリーナ・コニー)
冒頭の1行にはそう書かれている。それはどこか懐かしくて見覚えのあるフレーズだった。そうか…、そういうことだったんだ。ようやくそのことに気づいた僕は『喫茶アップル』を飛び出して家に戻り、中古のMacintoshを起ち上げた。そして『駅前の潰れたカフェに5時でいい?電池の切れたポケベルが鳴る』と、Netscapeに打ち込んでみる。やっぱりと言うか、予想通りたった1件だけヒットした。……クリックしてみる。『5月30日(水)誕生日おめでとう』のテキストが現れた、そこに表示されたものは今から20年後に書かれることになる他ならない僕自身のホームページだった。喫茶アップルもお弁当屋さんも彼女も、そして今の僕でさえもう存在しないであろう世界で残された記憶だった。Macintoshの電源を落とした僕は、再び『喫茶アップル』を目指していた。