2018年7月26日(木)

 

いつも乗る電車はその路線のほんの一部の区間で、駅を降りたあともその電車は知らない街を走りたくさんの知らない人を乗せている。

 

一本の電車を通して誰かの日常とつながっていることに気がついて驚いてしまう。それはとてもあたりまえのことですが不思議な体験だと思えます。

 

親や兄弟、友人や恋人でも、その人のほんの一部しか知らない。知らないのにそのほんの一部をすべてかのように自分の目は見てしまいます。人付き合いもまた不思議な現象です。

 

同じ電車から別の景色を見ている人の存在を意識しだすと、その人が見ている世界に憧れに似た興味を抱いたりします。それは何年もの間、自分の視野を広げる方法としては近道でした。

 

今はもうそんな作業をしなくてもいいのかもしれません。しなくてもいいので想像力の衰えが心配です。知らせたい人と知りたい人が闇雲につながる時代において。

 

それにしても見たい景色と見せたい景色は必ずしも一致しないもので、唐突にプライベートジェットで訪ねたサッカーW杯決勝戦なんてランチパック的ではないものを見せてしまうと「それは違う」と違和感を口にする人も出てきます。その違和感に「なにも違うことはない本人の自由だ幸せのなにが悪い」なんて嫌悪感を抱く方々もいます。違和感を抱く人とその違和感に嫌悪感を抱く人、それぞれの考えに善悪はありませんが、より想像力が不足しているのは後者であると思うのです。

 

見えている部分だけを切り取りそれがすべてであるかのように振る舞う人は、ますます増えるような気がします。

 

たくさんの人に話題を振りまいたこのネタも閉幕しました。あたらしい景色を見るために、これまでの何もかもを何もなかったかのような顔をして。