2018年11月5日(月)

 

両親の結婚記念日に花をプレゼントしたのですが、田舎育ちの僕にとって花ってその辺でわんさか咲いているもので、わざわざお金を出して買うものではなかったわけです。それがその辺で咲いていないエリート花に手を出すなんて時の流れです、しみじみです。酒を飲んで軽トラを転がす若者たちとは違います、さすがに二度目の二十歳を超えてくると、そんな力もありません。

 

 

歳をとると涙腺が緩んで困る、と、歳をとった方々が散々仰ってきた常套句を自分もそろそろ言い出しそうな勢いです。日によっては花をじーっと眺めているだけで涙を流せそうな時もあります。それはやっぱり「今しかない」が持つ刹那さがそうさせるのだと思うのです。花も夏の甲子園もはじめてのお使いも総じて泣けるのは二度とはない「今しかない」が凝縮されたものであることはご存知の通りです。

 

 

そしてそれは人の涙もそうです。涙には「今しかない」感情が凝縮されていますので無類の感動を覚えます。先日『かがみの孤城』(辻村深月)を読み終えたのですが、登場人物たちが堪える涙、流した涙、491ぺージ以降は全涙にもらい泣きです。それは「今しかない」の結晶で、不純物が混じる余地もない澄んだ哀しみと慈しみ、アイドルが流す熟練したビジネス涙とは純度が違います。今を生きる尊さや時間が持つ儚さを美しく描いた『かがみの孤城』が大変におすすめなのは、本屋大賞を受賞されたことでもわかります。人がいいと思うものを素直にいいと思えるのも二度目の二十歳がなせる余裕です。

 

 

あの頃は良かったとか、別れたあの人は優しかったとか、別れたあの人ならわかってくれたとか、別れたあの人のことばかりを仰る方は僕らぐらいの歳になるとまあまあ多くいらっしゃるのですが、たくさんの昔話もやがてふるいにかけられるように忘れていく中で、それでも身体に残る都合の良い記憶こそ、思い出の結晶、いわゆる美化された思い出ってやつです。その底のない美しさに騙されてはなりません。枯れた花をいつまでも眺めていても仕方ないですし、いつも花を買う人は枯れた花を上手に捨てられる人だって、花を売る人も仰っていましたから。