薄暮時に見える

2019年4月4日(木)

 

それなりに長く生きてきたのに、使えていない言葉がまだまだたくさんあることに気がついてしまいました。簡単に言えるのに言う理由がないやつ、例えば姉がいないと「姉貴」を言えないとか。たぶん今まで一度も口にしたことはないはずです、出す必要がないから。 姉が欲しいなんて思った覚えはないのですが、もし姉ちゃんがいたら姉ちゃんにオトナの面倒なことをみんな押し付けられるな~なんてことを時々考えたりします、長男だから。

 

 

日が沈んでから夜になるまでの薄暗い時間帯を薄暮時というのですが、『薄暮時はものが見えにくくなるから気をつけなさい』と、母にさんざん注意されて育ちましたので薄暮時への恐怖心は一朝一夕のものではありません。とても裸眼では歩けませんし、コンタクトレンズをしていても車の運転はなるべく避けたいと今でも思います。

 

 

母はこの薄暮時の件と、『そばの栄養はそば湯に全部出ていること』を物心がついた時から常々話してくれました、チャンスさえあれば今でも話します。逆にそれ以外のことはあまり話しません。

 

 

道路にちょこんと座っている野良猫に気づかれぬようそーっと忍び足で近づいていくとレジ袋だった、そんな経験は誰にもおありかと思いますが、あれは薄暮時の仕業です。薄暮時は恐ろしいです。

 

 

先入観とタイミングさえ合えば、“見える”ことを薄暮時は教えてくれます。昔の人は、この時間帯のことを「妖怪、幽霊など怪しいものに出会いそうな時間」として逢魔時(おうまがとき)と名付けたのにも合点がいきます。こっちの世界のものたちが、あっち側のものたちに会える時、日が落ちて夜になるまでの見えにくい時間が見えるチャンスです。

 

投稿者 片塩 宏朗

お読み頂きありがとうございました。コピーライターをしています。好きなランニングと短歌について時々書きます。フルマラソン:3時間15分28秒、ハーフマラソン:1時間27分59秒、シューズはasicsです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です