自由律俳句と言えば、“咳をしても一人”があまりにも有名な、尾崎放哉ですが。好きな自由律俳句の本を挙げるならせきしろx又吉直樹「カキフライが無いなら来なかった」です。年に3度は読み返す本棚の中でもバリバリ一軍レギュラークラスの一冊です。

 

自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴である。17音より短い作品は短律、長い作品は長律とも言う。定型の意識を保ったまま作られる字あまり・字足らずや句またがり、破調の句などとは区別される。また自由律俳句はあくまで定型から自由になろうとすることによって成立する俳句であり、したがって単なる一行詩がそのまま自由律俳句となるわけではない。(Wikipedia)

 

自由律俳句はその名の通り、俳句から定型(五七五、季語、文語)を無くした自由な俳句。有限の世界を無限に描くことのできる韻文です。日常をザクッと切り取った句から広がる景色や感情の揺れを想像するのが楽しいです。

 

日常を切り取るとは言え、ごく見慣れたシーンではベタ過ぎて驚きも共感も得られないし、あまりに個人的な世界観を表現しても読み手に伝わらないし、自由律俳句は簡単そうに思えて、詠むとなるととても難しいです。

 

例えば句集のタイトルに使われた「カキフライが無いなら来なかった」を普通のワンシーンとして切り取ると「カキフライが無いお店だった」でもいいわけです。しかし、これでは詠み手の悔恨の情が伝わりにくい上に面白くない。自宅からお店までやって来たモチベーションの全てを占めたカキフライに重心がおかれているのは圧倒的に前者ではないでしょうか。

 

きっと、自由律俳句として独り立ちできるのは、“誰もが目にしているにも関わらず気にも留めていない日常のシーンを顕微鏡でズームUPしてコマ送りで再生させた時の一コマ”を取り出せているもの。それは多分、考えているだけじゃ詠めない世界で、意識と無意識の共同作業のような気がします。

 

そう思うとこれは広告のコピーを考える作業とほぼ同じでは?そこに商品が有るか無いかの違いだけで。遂にこれからはコピーライターも俳人も歌人も文筆家も同じ畑で食い争うライバルとなるわけです。自給自足をしようにも畑が無くなる。農協も無いし、田舎に帰りますか。

 

 

以下、「カキフライが無いなら来なかった」より好きなものを少しだけ引用します。

 

 

お湯が六分の一くらいの湯船でじっと待つ  せきしろ

超あるあるです。この状況を完成させるには二通りあって、ひとつは湯を入れていると思って裸になったはいいが湯を入れ忘れていたパターン、もうひとつは、湯を入れながら身体を洗っていた為、浴槽に湯が出ず溜まらなかったパターン。どちらにせよじっと待つ間はハエが止まるほど時間の流れが遅い。そして冬なら地獄。

 

 

山では素直に挨拶出来る  又吉直樹

確かにできる。挨拶に必要な恥ずかしさを半減させる力が山にはある気がします。たくさんの生き物が生息する自然の中で人は同族意識を取り戻すのでしょうか。ごめんなさいを言えない人と一緒に山を登ればごめんなさい言える気がします。そんな状態では登れないか。

 

 

ここがファミコンショップだったことを知らない世代  せきしろ

世代を分ける境界線のひとつにファミコンショップがあります。日曜日、親の買い物に付き合う目的はファミコンショップに立ち寄りたかったから。ファミコンショップに独りで出入りするようになったら親離れの一歩です。持てる全財産とゲームから得られる楽しさを計算し費用対効果をはじき出していたのは良い思い出。今はなきファミコンショップの跡地に介護タクシーやデイサービスの施設が立っているのを見ると隔世の感です。

 

 

縄跳びが耳にあたったことを隠した  又吉直樹

そして、赤くなった耳を隠すかのように美しい夕日が沈む…。

 

 

始発電車に眠る人と眠れぬ人と登山者  せきしろ

眠る人と眠れぬ人にはなったことがあるので、残すは登山者。早朝の新宿で登山者側に立って、眠る人と眠れぬ人を見てみたい。どんな景色が見れるだろう。始発電車は異世界の住人たちをそれぞれの世界へと運んでいきます。

 

 

これも頑張れば燃えるゴミだろう  又吉直樹

引越しを見据えた大掃除。袋を二つ並べていらないものを燃えるゴミと燃えないゴミとに仕分けする。最終的には燃えるor燃えないより、燃やせるかor燃やせないかの自主基準となる。そして圧倒的大差で燃えるゴミの袋が膨れる。勢いのある日はすべて燃やせそうな気がしてくる。

 

 

バスの運転手同士が挨拶しなかった西日の中  せきしろ

いつも前方の席に座る者には凄く良くわかる光景です。せきしろさんもバスを良く使うのか。同じバス会社の運転手さん同士のすれ違いざまに見せる挨拶が面白い。二人の関係性やバス会社の雰囲気までもわかった気になるので見逃せないシーンです。先輩後輩のきちんとした会釈もあれば同期なのか仲良しなのか、本人たちだけがわかる目配せや手振りなどでメッセージを伝え合う運転手さんもいる。とても平和な光景。それだけに挨拶を交わさない場面に遭遇した時は衝撃でした。バスの運転手さんと言えど、そこは組織の一員。仲良しでいられることが奇跡なんだ。西日が染みる。

 

 

いつか登ろうと言ったきりの高尾山  又吉直樹

登った人より登りたいと口にした人が圧倒的に多い山、高尾山。山は低いが人気は高い。その人気も都内から行けるメジャーな山という、ほとんど消去法のような理由。この句は高尾山のキャッチコピーになる。「いつか登ろう」ぼくも口にしたことがあると思う。いや、ないかもしれない。

 

 

七味が思った以上に出てきた  せきしろ

飲食店の七味って出が悪いイメージがあるので、家よりも強く振る。思った通り出が悪い時も思った以上に出た時も、結局、家よりもかけすぎる。

 

 

次の電信柱で交代  又吉直樹

電気を運ぶだけではない電信柱の大切な役割である犬のトイレと交代の目印。 住宅もまばらな田舎の子供の方がひとりにかかる負担が大きそうだ。

 

 

 

自由律俳句、捉えきれないほどの自由奔放さゆえに詠むのは難しいです。自由と名がつくものはたいてい難しい、そして面白い。

 

 

 


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